本日UPの「差別はつくられる」に続く連投です。
NHKの『埋もれた初期被爆を追え』
で明かされた事実のうち、
特に驚いたことの一つが
小林代表師範も以前こちらのブログに書かれていたように
原子力災害対策本部が、まだ起きてもいない「差別」を理由に、初期被曝の追跡調査自体を行わなかったということです。
これと、今週号の週刊ポストによる、
福島県民への差別事件の捏造は、
構造的に同じであると
私は思います。
今日トッキーさんのブログでも話題になっていますが
かつての文春の記事が「デマ」「捏造」であるかどうか問われた
レベルとはおよそ比較にならないほど
明確かつ悪質な「デマ」「捏造」
が今回のポストの記事です。
このことは今日の「差別はつくられる」の方に具体的なところを書きましたので、
ぜひ読んで下さい。
「データが不十分なのに放射能への不安を煽るな」などという物言いは、
そのデータを取る機会そのものを「反差別」を理由に奪ってきた者がいる
という前提の上で検討されなければならない。
そして一番おそろしいのは、
「放射能安全神話の流布のために、福島県民への差別を利用し続ける」構造に、われわれ自身が無自覚に乗っかってしまうことです。
小林さんがこちらのブログに書いた、
社会に差別は必ずあるが、
福島への差別は
広島・長崎に比べれば
「たいしたことないよ」という
一見ざっくばらんな表現が、
実はものすごく「深い」含蓄にのっとった
言葉であることに気付かされました。
この間の道場でジャーナリスト・田上順唯氏は、
以下の内容の発言をしました。
「現地の人々の被差別感情に
ただのっかるのではなく、
『それはあなたが直接受けた差別なの?』
と質問を返し、対話をしていく
ことが重要。彼らだって本当は
自分の正しい立ち位置を
知りたいんです」
実は田上氏のこの発言は
一部と二部の間の休憩時間に
雑談として話されていたものを
小林さんが「ぜひ二部で発言して」
と促したものです。
休憩時間に田上氏は
「たとえ上から目線に見えようと
被災者にきちんと言うべきことは言った方がいい」
と言ってて、「おお」と思ったのですが
二部の彼の発言では「上から目線」という言葉は使わず
やや和らげた言い方にしていました。
さすがに田上氏も大人だなと思いましたが、
しかしこの際ハッキリと
「上から目線だろうと必要なことがある」
と言ってしまった方がよかったのかな……と
思ったりしました。
「上」というのは、もちろん身分や人間的価値の上下ではなく、
お互いの立っているところをより明確にするため、
一つ上に突き抜けた視点が必要・・・・・ということです。
「差別はいけない」ことを理由に作られてしまった空気。
そこから一歩突き出て、
正しく状況を認識し合おうよとは
言いだしにくい。
そのことで、実はもっと上からの目線で
「こいつらの不安を利用してやれ」
と画策している向きに
やすやすと乗せられてしまう。
こちらを読んでいる皆さん、
道場に集う皆さん、
あるいはゴー宣道場選書を読んでこちらに来てみた皆さん、
そんな空気から率先して抜けだして、
自分たち国民としての共有意識を
呼び掛ける側になろうではありませんか。